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フォルクスワーゲンについて

フォルクスワーゲン(Volkswagen AG )とは、ドイツ最大手の自動車メーカーである。傘下の企業を合わせてフォルクスワーゲングループを構成する

フォルクスワーゲンは、ドイツ語で「国民車」または「(ドイツ)民族の乗用車」の意 。"Volkswagen"の標準ドイツ語発音は 「フォルクスヴァーゲン」だが、日本では "Volks" 部分をドイツ語読み、"wagen" 部分をローマ字読みした、輸入会社「ヤナセ」考案の「フォルクスワーゲン」という呼び方が慣例的に用いられていた。もっとも、英語でも 「ヴォルクスワグン」という読みが慣例的に用いられており、ドイツ語と異なる読みが用いられるのは日本に限ったことではない。

フォルクスワーゲン社の日本法人が1983年7月に『フォルクスワーゲン株式会社』として設立されたことにより、ドイツ語と日本流ローマ字読みの混合名称は公式に追認された形である。現在はフォルクスワーゲン グループ ジャパン株式会社に改名している。

日本では『フォルクスワーゲン』およびその短縮形の『ワーゲン』は長い間、同社の『フォルクスワーゲン・タイプ1』を指す愛称として用いられてきた。本国ドイツではこれを「カブトムシ」を意味する『ケーファー(Kafer )』と呼び、英語圏では同意の『ビートル(Beetle )』の呼称が広く用いられた。日本でも「ビートル」の愛称はよく知られている。アメリカでは単に『虫(バグ、Bug )』とも愛称されるが、日本ではビートルを趣味の対象とするマニア内の用語に留まっている。タイではタオ(亀)の愛称で呼ばれる。

旧フォルクスワーゲン製造会社は第二次世界大戦前にナチス政権の国策企業として設立された。フォルクスワーゲン社自身による年表でも1937年設立となっているが、会社としては第二次世界大戦終戦後のイギリス軍管理下で改組されたもので、工場と製品設計のみを継承した形となっている。

アドルフ・ヒトラーが1934年のベルリンモーターショウで提唱した国民車(フォルクスワーゲン)計画に従い、著名な自動車設計者であるフェルディナント・ポルシェによって、進歩的なメカニズムを備えた流線型のリアエンジン小型車が開発された。後のフォルクスワーゲン・タイプ1となる車である。1936年に最初の試作車を完成、1938年に発表された。

当初ヒトラーはこの車を「フォルクスワーゲン(国民車)」と称していたが、最終的に1938年に、「KdF-Wagen(歓喜力行団の車)」と命名した。歓喜力行団とは、ドイツ労働戦線の一部局で労働者の余暇活動を活性化させる組織を指し、文字通り「ナチス政権下の国民車」としての意義を強調するものであった。

生産のために1937年5月28日フォルクスワーゲン準備会社(Gesellschaft zur Vorbereitung des Deutschen Volkswagens GmbH )が創立され、1938年9月16日フォルクスワーゲン製造会社(Volkswagenwerk GmbH )と名称変更。この国民車の大量生産を期し、歓喜力行団の車を生産する街 (Stadt des KdF-Wagens )までもが新しく建設された。

しかし1939年9月に第二次世界大戦が始まるとフォルクスワーゲン製造会社は軍需生産に移行、歓喜力行団の車をベースにしたキューベルワーゲン等の軍用車両を生産、民需のフォルクスワーゲンを生産することはなかった。フォルクスワーゲンを購入するために労働者は余暇活動組織「歓喜力行団」を通じて積立金を支払っていたのであるが、民需生産の中止により実際の納車はなされなかった。

戦時中のフォルクスワーゲン製造会社の生産ラインにはポーランド、ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、イスラエル、オランダ、フランス、オーストリアなど、近隣諸国からの約2万人の強制労働者や戦争捕虜、のちにはアウシュヴィッツ収容所の収容者が送り込まれ、過酷な労働を強いられ死に至る者もいた[7]。

設計者であるフェルディナンド・ポルシェもキューベルワーゲン、シュビムワーゲン以外にティーガー戦車を含めた軍用車輌開発に従事していた。そのような情勢でフォルクスワーゲン計画は立ち消えた形になったのである。

第二次世界大戦の欧州戦がドイツの降伏によって終結すると、ドイツ全土は連合軍の占領下におかれた。KdF工場はソ連に接収され、やがて撤去されようとしていたが、重要性に気づいたイギリス軍が最終的に管理下においた。工場所在地の「KdF市」というナチスじみた地名も、近くにある城の名前に因んでヴォルフスブルクと改名された。

フォルクスワーゲンにとっての幸運は、理解あるイギリス軍少佐のアイヴァン・ハースト(Ivan Hirst 1916年-2000年)が工場管理者となったことであった。ハーストはKdF車の将来性と、ドイツ人労働者の高い資質を見抜き、リーダーシップを取って、戦禍によって廃墟同然となった工場を復興させた。その結果、1945年中にはフォルクスワーゲン社が改組され、KdFも「フォルクスワーゲン・タイプ1」に車名を変更して生産を再開したのである。

さらにハーストは占領軍の管理者という立場でありながら、品質管理や販売網・サービス網整備にまで意を払い、フォルクスワーゲンの礎を築いた。1947年からはオランダを皮切りに輸出も開始している。

フォルクスワーゲン車は、戦後のアメリカ、イギリスの主要自動車メーカーからも調査の対象となったが、その進歩性・合理性を、保守的なデトロイトや英国の技術者たちは理解できなかった。英国メーカー各社の調査団は検討の結果「評価に値しない車」としてこれを看過した。フォード・モーター社トップであったヘンリー・フォード2世は、1948年末の連合国側関係者による検討会議で「フォルクスワーゲンは無価値と判断する」旨発言してこれを放擲する意見を表明し、連合国関係者はフォード2世の意見に同意した。このため、他国に設計・設備を収奪されるような事態に至らず、フォルクスワーゲンはドイツの民族系企業としての発展を約束されたのである。

これに先立つ1948年1月、戦前にドイツ最大の自動車メーカー・オペルの幹部であったハインリッヒ・ノルトホフが、ハーストの後を受けて経営に携わるフォルクスワーゲン社長に任命された。就任にあたり、ノルトホフは工場の労働者に自身の信念を語っている。

『未来は過去と決別するときに始まる』

爾来、辣腕のノルトホフに率いられたフォルクスワーゲン社は、ヒトラーの数少ない「正の遺産」である「タイプ1」を中心に、その言葉の通り戦後の社業を拡大して行くことになった。

主力モデルである「タイプ1」は、その耐久性と経済性、そして優れたアフターサービス体制で世界の市場から圧倒的な支持を得ることに成功した。「ビートル」の愛称で広く親しまれたこの古風な流線型車は、アメリカをはじめ全世界に大量輸出され、貴重な外貨を獲得して西ドイツの戦後復興に貢献した。2003年のメキシコ工場における生産終了時点までに生産された台数は2,152万台以上に上り、モデルチェンジなしでの1車種としては未曾有の量産記録となっている。おそらく四輪自動車で、今後もこれを破る記録は現れないであろう。

フォルクスワーゲンはタイプ1の設計をベースとした派生車種を多く送り出したが、中でも1950年に発表したキャブオーバー・ワンボックス車の「タイプ2」は、貨客搭載力と乗り心地を両立させた優秀な汎用車として大人気を博した。

1960年までは西ドイツ政府の国営であったが、民営化にあたり「フォルクスワーゲン法」という特別な法律が制定された。この法律により、投資家はどんなに株を買っても議決権の20%までしか保有できないようになっていたほか、筆頭株主がニーダーザクセン州であったなど、通常の一般企業とは異なる面をもっていた。

1965年には、従来ダイムラー・ベンツ傘下にあり今日のアウディAGの前身であるアウトウニオン社を生産体制強化のために買収した。