車 買取、中古車 買取、中古車 査定のウッドストック車 買取、中古車 買取、中古車 査定のウッドストック

オンライン無料査定

オンライン無料査定のフロー

【ロータス】の高額買取をしております。
必要情報をご入力後、確認ボタンを押してください。

車輌情報をご入力下さい。

メーカー名
ロータス
車種名
グレード
ボディカラー
 
年式
走行距離
備考

お客様情報をすべてご入力ください。

お名前(カナ)
 ※全角カナでご入力願います。
お住まいの
都道府県
電話番号
 -  - 
メールアドレス

 

 

車種一覧

  • ロータス エクシージ
  • ロータス エスプリ
  • ロータス エラン
  • ロータス エリーゼ

ロータスについて

ロータス(Lotus)とはイギリス・ノーフォークのヘセル・ノリッチ(Hethel Norwich Norfolk)に本拠地をおくスポーツカーメーカーであり車両の開発販売を行うロータス・カーズ、技術シンクタンクとして各種の技術開発を行うロータス・エンジニアリング、グループを統括するグループ・ロータス及びロータス・グループ・インターナショナルなどで構成されるグループ企業である。グループはマレーシアの自動車メーカー、プロトンに属する。社名のロータスはそのまま蓮を指し、グループエンブレムの中にも角の丸い三角として描かれており創業者のアンソニー・コーリン・ブルース・チャップマンが仏教思想で「俗世の苦しみから解放されて夢がかなう実」とされる蓮にちなんで名付けたとの説が有力であり、エンブレムの「A・C・B・C」も創業者のイニシャルである。

1947年、当時まだロンドン大学の学生であったチャプマンは副業として営んでいた中古車販売業であまりに旧式なため売れ残ったオースチンの1928年型セブン[1]を自分用のレーシングカーに改造することを思いついた。

彼は事業パートナーであったコーリン・デア、ディレック・ウェットン、そしてガールフレンドであったヘイゼル・ウィリアムズらとともに旧式のシャーシを初めとする大部分を作り直し別の車と言ってよいほどの大幅な改造を施した。この作業はロンドンのミューセル・ヒルにあったウィリアムズの実家のガレージで行われたという。

完成した車は別の車として登録[2]され、翌1948年にはマイナーレースに参戦する。しかしチャプマンはこの車のベースとなったセブンのエンジンパワーでは本格的なレースに参戦するのは不十分と考えており、すぐにより強力なフォード製「フォード8」エンジンを搭載した次モデルの構想に着手する。この次期モデルはロータスと名付けられ1949年に完成した。これが最初にロータスと呼ばれた車である。

ロータスはチャプマンが完成させた2番目の車であることからマーク2と呼ばれ、それに伴って最初の車はマーク1と呼ばれることになった。マーク2は完成してすぐさらに強力な「フォード10」エンジンへと換装され、レースに参戦するのは翌1950年からとなった。マーク2は高い戦闘力を発揮しチャプマンとヘイゼルの手で総合優勝4回、クラス優勝4回と好成績を挙げる。特に同年6月3日にシルバーストーンで開催されたエイトクラブ主催のレースでは、GPレーサー(現在のF1マシン)のブガッティ・タイプ37と競り合い優勝してしまう。

型落ちとは言えGPレーサーに無名のガレージ作成のレーシングカーが勝利したことは驚異であり、チャプマンは大いに注目されることとなる。マーク2は初の顧客となるマイク・ローソンに売却されその後も好成績を挙げた。

チャプマンはより本格的なレーシングカーの開発に着手し新たな協力者としてマイケルとナイジェルのアレン兄弟を迎え彼らが所有していた郊外のガレージで販売を目的としたレーシングカー、マーク3、マーク4を完成させる。特にマーク3は当時のイギリスで人気のあったフォーミュラ750カテゴリで無類の強さを発揮しロータスの名は着実に高まっていった。本格的なレーシングカー製造販売を目指していたチャプマンはマーク3の成功により、いよいよ市販モデルの構想に着手する。

それまでのワンオフに近いモデルと異なり最初から量産を想定したモデルはマーク6と呼ばれ、その実現のためチャプマンはマイケル・アレンと共に1952年1月1日、ロンドンのホーンジー、トテナム通りにロータスエンジニアリングを設立した。

マーク6はそれまでのベース車両の改造シャーシではなく、専用設計されたシャーシを持つ最初のロータスである。プロトタイプは順調に完成しテストを兼ねて1952年7月からレースにエントリされるがその年の8月アレンが公道で運転中にクラッシュ、これがきっかけとなりアレン兄弟はロータスを離れることになる。

創業メンバーの半数を失いスタート間もないロータスは危機を迎えるがチャプマンとその婚約者であるウィリアムズを取締役として、そしてエンジニアとして新たにマイク・コスティンを迎え1954年1月1日に株式会社として再出発することとなる。コスティンは生産技術者として非凡な才能を発揮し、生産型マーク6はその年の前半には顧客にデリバリされた。

元々レーシングカーであるマーク6は色々なエンジンを搭載することを前提としており、また基本コンポーネントに様々なオプションを組み合わせる形でキットフォームとして販売された。軽量なスペースフレームを持つマーク6は、その高性能とは裏腹に同レベルのライバル車と比べて安価でありプライベートレーサー達に好評をもって受け入れられた。マーク6は1955年まで製造されその間100台から110台が出荷されたが、その間ロータスの工場はほぼフル生産であったという。

マーク6の成功で十分な資金を調達できたロータスはマーク6を元により軽いシャーシ、より洗練されたボディを持つ新しいレーシングカーの開発に着手する。本格的に空力を考慮したボディは、コスティンの兄弟であるフランクの手によって開発された。この後コスティン兄弟は開発、生産エンジニアとして創成期のロータスを支えることとなる。

マーク8と呼ばれるこのモデルは1954年4月には完成、そのシーズンのレースにエントリしている。1955年、ロータスはマーク6の成功によって自動車製造販売組合に加入し、正式にメーカーとして認知された。これにより同年のアールス・コート・モータショーに出品が認められロータスはこのショーにマーク8の発展型、マーク9のベアシャーシを出品する。マーク9はその後、発展系としてマーク10そしてイレブンまで開発される。イレブンは1956年のシリーズ1、1957年のシリーズ2と総計して270台が製造された。なおロータスはこのイレブンからそれまでのマーク〜の名称を止めレーシングカーでは単なる番号、もしくはタイプ〜、市販車ではペットネームを採用するようになる。